俺とお前とインターネット

「あの時は世界に大きな広がりを感じたんです。
 それこそ、無限に広がって幾ばくかの可能性も”夢じゃない”ってそう思ったんです。」
と、当時を振り返る私の中の記憶が語り出す。
おおよそ中学生時代にWindows95のニュースを知り、
これからはパソコンとインターネットだという無根拠な思いから、理系、工学系に進み今はしがない名ばかりシステムエンジニアなんてものをしている。
「これからは」の大枠は間違っていなかった。
今はもうプログラムをほとんど書かないし、調整調整の政治家になってしまったけど
それでも時折、空き時間にVBAだのshellだのでルーチン業務をプログラム化して楽しんでいる。
PythonだのGoだのは知ってはいるが、調べないと読むこともちょっとしんどい化石人材だ。
中学のその頃は「”ホームページ”なんて何が面白いのツマンネー」という言説があふれており
何かの機会で見て、来て、さわった富士通おじさんの自身もそう思った。
よくあることで同じく「twitterなんて何が面白いの?あんなに短くてはなんも言えねぇ」なんて言われていたので
インターネット・ミームの初期症状なんでしょう。
トラックバックについては「ゴッゴル」とか「デースケドガー」で盛り上がらせようとしたけど
「スパムだらけで死ぬ」という言説の通り死に体だ。
そういうことで、ただ死屍累々の中で生き残った現在を観測して勝手にそう思っているんだろう。

俺とお前とインターネットに戻ろう。

諸君 私は2000年前半のインターネットが好きだ
諸君 私は2000年前半のインターネットが好きだ
諸君 私は2000年前半のインターネットが大好きだ
好きが高じてこんなのも書いたら、思ったより反響があってうれしかった。
https://anond.hatelabo.jp/20210222005750

冒頭の記憶からの言葉はここに繋がる。
90年代後半の23時テレホマンから駆け抜け、
繋ぎホーダイのケーブルTVの人をうらやましく思いながら、
YahooBBの配りまくりADSLに2000年ごろから乗り、そこから私の好きな時代が始まったように思う。
常時繋がって、今ではスマホの制限モードの8MBpsを神だと崇めていた、そんな時代だ。
その頃には「〇〇のほーむぺーじ」の時代から少し抜け出して、SNS的な繋がりが出来上がりつつあった。
私をインターネット初老とするなら長老とかは「草の根BBSとかあったんですけど、正に草w」とか言われてしまいそうだが
私としては、その認識だった。
当時は、浦沢直樹先生のMONSTERにはまっており、BBSで次の展開を妄想合戦をしつつ、チャットで盛り上がったりした。
関西在住であったので、時折東京で開催される「おふかい」なんてものに憧れを抱いたものだ。
そのMONSTERが最後ああなるとは…。とは思いつつ、最終回直前まで楽しませていただいたので、浦沢先生には感謝しかない。
ゴルゴ13も好きでネットを調べると「最終回は決まっていて、既にさいとうたかを管理の金庫にその原稿を入れている」
とか、私の知的好奇心を満たすには十二分にインターネット世界は広がっていた。
そして、これもまたかと言われる話だが、検索で2chの存在を知り、その玉石混交を楽しんだ。
バスジャック事件という有名なものから、ヤフオク著作権違反の出品をした出品者を追い込むまぁ今考えれば糞で矮小なものまでいろいろ楽しんだ。
一番はしゃいだ記憶はあの夏の日、2chの転送量問題で閉鎖騒動が起きた時だ。
https://sfcclip.net/2001/09/4569/
こんな感じの話で、リアルプロジェクトXを見ている様で感動し、
ガヤ的なコメントしかできなかったけどそこに参加できている自分に感動していた。

この頃から、インターネットに漬かりまくり、ネトゲ、所謂リネージュとかいうのにもはまって、ランメタ探しをしたものだ。
金のない自分には、無料期間以後の課金に踏み切ることができず、そのまま退場した。
結果としてはそれで良かった。
リネージュの世界に旅立ったまま、留年、退学したあの同級生はどうしているだろうか。
ケチケチとブラウザゲームとかする中で、マイナーなアッピーオンラインというネトゲに手を出していた。
確か、少年ジャンプの裏表紙に広告があり、そこから入ったように記憶している。
ベルトとナット、ささよろ、結婚、職人、ペットシステムなんて当時の自分にはそれでもそこそこはまった。
しかしもうこれも今や見る影も無いのはネットの罪だよなぁと。
そのアッピーオンラインに冷めたのも、ネトゲで付きものの争いごとを目にし、
怒っていた同じクランの人が「俺は柔道家の〇〇と同級生なんだ!あいつ!!!」などと
何の意味のもない自慢とも誇示とも取れる姿をみて一気に現実に戻ることができた。

それから数年ほどして「インターネット孫ニュースサイト」というものに手を染めた。
初めは流行に載って、日記としてblogに書いていただけなのだけで、一日数アクセスあれば良い程度の趣味でやっていた。
とある漫画に対するニュースにコメントを付けると、大手孫ニューサイトに取り上げられて
そこから一日数百アクセスを受け、脳汁の間欠泉が観測された。
徐々に大手サイトを「オートアンカー」というツールを使って紹介するようになった。
なお、「オートアンカー」とは「面白サイト(引用元サイト)」なんて形で紹介するHTMLタグを右クリックで作ることが
できる便利ツールだ。
孫ニュースサイトをこれから始める諸君は、この辺りを有効活用してほしい。
孫ニュースサイトには上記のツールの通り、「引用元」を紹介するという文化があった。
そのおかげもあって、孫ニュースサイトとしては一日に数百アクセスは取れるようになった。
(そして、孫ニュースサイトがアクセスのフリーライダーと言われ、「孫ニュースサイト論」なんてのが盛り上がっていたけど割愛。)
そして、孫ニュースサイトをやりつつ、時折元々の日記的なものから発展して雑学的なネタを自己で紹介することで
その孫ニュースサイト連盟のアクセスを受け日に万を超すアクセスが出てきた。
その一番の要因は、当時はサイト運営者なら知らないものはいない動ナビ砲というものだ。
結局はエロ、エロこそ正義。
それを浴びてからは、なれ合いをよしとせず淡々とやっていたのもつかの間
大手サイトさんのWebラジオに出たり、コメントでゆるいなれ合いをすることで引用元サイトとして採用してもらいやすくなるなど
結果としてあの時の自分はアクセスに飢えていた。

また、並行して2chの「おふかい」などというものにも参加していた。
そのオフ会では、比率が少ないながらも女性がおり男子校的な工学系の大学に進んだ自分としては
そこでの出会いを期待したが、結果には至らなかった。
まぁそれでもキャバ嬢の人とボウリングをしてハイタッチとか、下ネタ満載の話をする美人のおねーさんとかと
お話をできたり、
mixiはハンドルネーム固定、2chは匿名、いわばこれは闘争だ!」
とか言う香ばしいおにーさんのお話を聞けたのは良い思い出だ。
このオフがきっかけで2ch上で「結婚します」なんて言っていたコテハンの人もいた。
真偽は不明だし、スルーされていたけど、やはりその手のものに憧れていたけど
なんの成果も!!得られませんでした!!

そんなこんなで2000年後半に至ると研究や就職活動で忙しくなり
その孫ニュースサイトも放置、2chもそこそこになっていたけど
就職ランキングなんてのを見ていた。
正しくはないけど、大きく間違ってはいなかった。
特にブラックはその通りだった。
アレには感謝している。
そこから就職し、今に至る十数年はゆるくネットとつながっている。
mixiとかFacebookあるにはあったけど、ちょびっツ程度しか。。
あと、はてブも数年前に★取りゲームとして少しの間嵌ったか。
結局、自分のリソースをかけられた時期であるのが2000年代前半と中盤ちょっとってのがその思いの答えなんだけど
あの頃は、まだ未成熟な世界に可能性を感じていた。
自信が未熟なこともあり、夢が広がりんぐだったというこれも今や親父ワード。
今やひろゆき氏が若者の間で論客として扱われている姿も
当時の2ch菅直人として時折出没していたところを重ねながらもほろ苦い気持ちで眺めている。
そういえば2chのメルマガってのがあって、「ファミコン店員さんのつぶやき」みたいなスレを紹介してもらって
ほのぼの眺めていた。

あの頃に比べてネットの世界は広がり、可能性は高まり、距離も縮まり、速度もダンチで上がったし、現実世界に対する影響力は桁違いだ。
昨今のオリパラ騒動もこの状況があってのことだろう。
そんな世界の中で2000年代前半を懐かしむのは
自分はそこに当事者ではなく、片足を突っ込んだだけのほぼ傍観者になっているんだけなんだな、という変わらない結論。
ただこれだけは言える、あの時に私の青春があったんだと。
当時からの一人称も俺、僕、私に遷移する中で、ネットを眺めている。

俺から始まったインターネットはいつの間にかお前になり、
お前となってしまった私は
「ついていけるだろうか”俺”のいないインターネット世界のスピードに」
と、思うのだ。

⊂二二二( ^ω^)二⊃
はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」